日本人は「察する」民族と言うような言葉をモンゴルに来てからよく聞きます(特にO隊員から)。まぁモンゴル人は察しないからね。モンゴル人に限らずだけれども。
ただ最近この「察する」ということがどうも誤って解釈されているような気がします。本来「察する」というのは「気配り」が出来ることと同義だと思います。気配りとは、気付かれないように、もしくは気付かれても何事も無かったかのように、相手の人のことを考え心を使うことだと思います。それがいつの間にか「察する」ことは「空気を読む」こと、そういう意味で捉えられるようになってしまったと思います。
「空気を読む」ことは実はとても高度なコミュニケーション力が必要で、誰にもで出来ることではないと思います。適切な例えでは無いかも知れませんが、欧米の人には要求できないスキルです。それが日本では当たり前のように誰もが出来るスキルとして要求されてしまっている。つまり察する民族なのだから空気が読めて当たり前だと。そこに日本人の不幸があるのではないかと考えています。
何でこんなことを突然書き始めたかというと、最近立て続けに日本の年間自殺者数が10年連続3万を超えたというニュースを目にしたからです。主な原因は「失業」とされています。勿論、失業だけでなく、失業に関連した問題があるのだと思います。ただ失業率が日本より高い国はたくさんあるのに、日本より自殺者の多い国はありません。そう考えると、日本社会固有の性格に原因の一因があるような気がします。その固有な性格に「空気を読」まなければならないコミュニケーション問題が隠れているような気がするのです。
「空気を読む」ことは高度なコミュニケーション力が必要と書きました。そしてそれが要求されることにより緊張とプレッシャーが圧し掛かってしまう社会になってしまったのではないかと思います。(全てではありませんが、いじめの構造もこの緊張とプレッシャーに関係があるように思います。)そして当然のように、緊張とプレッシャーに耐えられない、または耐えたくない人が出てきます。そういう人は自然(防衛本能として)とコミュニティから離れたり、疎外されたりするようになると思います。あるいはアイデンティティが分からなくなってしまうくらい耐えてコミュニティに残るのだと思います。その結果、自分とコミュニティとの接点の希薄化が起こるのだと思います。
人は社会的動物である。アリストテレスのこの言葉は、人はそれぞれの社会に果たす役割がありその結果社会は成り立つものであると解釈されます。これは社会との接点をもつことが人間として自然な姿であると言い換えられます。そして自分とコミュニティの接点の希薄化が起こることは、社会に通じる回路が閉ざされるに近いことです。別にここまで考えなくとも、社会との接点の無い孤立した状況が耐え難いものであることは想像がつくと思います。だからこそ、自殺の防止対策に"他人との関わり"を重視するメンタルヘルスが有効であると言われています。
「察する」ということが「空気を読む」ことと誤解され、それが要求される社会を高度コミュニケーション社会と考えました。そしてその社会に適応できない、したくない人が徐々に孤立化していくのではないかと考えました。これは「生きづらさ」そのものなのではないかと思います。孤立化が経済的貧困と結びつき、その最悪の結果として自殺にいたるのではないかと考えました。
今回はいつもより長めに書きました。また加筆補正するかも知れません。
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