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2020年3月3日火曜日

山川異域、風月同天

東京新聞 2020.03.02

山や川は違えども、同じ風が吹き同じ月を見ている。日本から中国へ送られた支援物資に書かれた漢詩の一節。中国人はとても勇気付けられたという。互いに困難な状況にあるときに、相手を思いやる気持ちを示せること。それは優しさの連鎖を生む、人として最も道徳的な行為ではないだろうか。

デマが流れたり、それに流されたり、他者の困難に乗じて利己的な行為に走る人が目立つなか、こういったニュースが届けられることの価値は大きい。不安は恐ろしい。冷静さを失わせる。その時に何が一歩踏みとどまらせることになるのか。リーダーシップとそれにともなう正確な情報。そして道徳心。そう思う。

2019年7月6日土曜日

戸田真琴さんtwitterをやめる

東京新聞 2019.0706

今日の東京新聞。AV女優の戸田真琴さんがtwitterをやめることについてのコラムを読んだ。コラムのもととなった戸田さんの「報告」を読んで、その内容の素晴らしさに胸を打たれた。ぜひ、多くの人に読んでほしいと思う。
やめることにした理由について、理路整然とした文章でその思いを綴っているのだが、なかでもファンとの手紙による交流に、本来の言葉の持つ重みや、温かみを受け取ったという件に、彼女の人柄や、こころの深さを感じて、素直に感動した。
文章で人を元気付け、前向きな気持ちになるよう、優しく背中を押すことができる。それはやっぱり途轍もない才能だと思う。戸田さんの文章を他に読んだことはないので、言葉がどうしても軽くなってしまうのだけど、彼女はすごい人だなと感じた。
これを機に彼女の作品を観てみたいと思ったし「まこりんカフェ」なるものに参加してみたいとも思った。そして、受け取ってもらえると信じられるからこそ、彼女の文章を読んで励まされた感謝の気持ちを、手紙に託して、思い切って届けてみたいと思う。

2019年5月29日水曜日

優性思想



旧優生保護法において、本人の同意のないまま強制不妊手術を行われた原告2名による損害賠償請求裁判は、法を違憲を認めながらも請求を棄却する判決が出された。僕は、他人の痛みは数か月もたつと忘れてしまうので、文章として残しておきたい。

弱者(という言葉は好きじゃないのだけど)に寄り添うことのできない社会に強い憤りを覚える。それは、結局のところ「優性思想」が、社会に根を下ろしてしまった結果なのではないかと感じる。今回の判決だけでなく、社会の日常のあらゆるところに。

経済的格差も、低収入なのは個人の能力がないからと自己責任という「優性思想」に転化する。そして、それを「問題」として解決を目指すことよりも、その社会を前提として、低収入でも「幸福」になれる方法を、あたかも「解決策」であるかのように肯定的に受け止める社会。

効率的で実際的な幸福論だし、ポジティブな発想であるから抗いがたい魅力もある。でも、それは何かおかしいんじゃないかと感じずにはいられない。何が、どう、それを的確に説明できないもどかしさに悔しくなる。でも、今回の原告たちに寄り添う判決が出されなかったように、どこかで「痛み」に鈍感な社会を作り、その先にあるものに不気味さを覚える。

2018年1月25日木曜日

ロブスターの食べ方


東京新聞 2018.0125
ロブスターを生きたまま茹でるのを禁止する法律ができた。日本ではなく、スイスの話。ではどうやって食べるのか。電気ショックで失神させてから茹でるのならOKらしい。理由は、ロブスターは高度な脳組織を持っているので、生きたまま茹でられるのは苦痛を与えるからだそう。恐らく日本人には相当理解しにくい感覚なんじゃないかと思う。
2020年。オリンピックで海外からたくさんの人が来る。日本の食文化にもスポットライトが当たるはずだ。その時、魚の生き作りを見たらたまげるんじゃないかと思う。動物虐待だって思うはず。きっと世界には他にも似たような事例がたくさんあると思う。理解できないことがあるから面白い。それくらい寛容なのがちょうどいい。僕はそう思っている。

2017年3月18日土曜日

いじめ

東京新聞 2017.03.18

原発避難者に対するいじめ問題について、師岡さんのコラム。原発事故があろうがなかろうが「いじめ」そのものが卑劣であることを忘れてはいけない。その通りだと思う。一方、名古屋市が公開したいじめ自殺事件の報告書を読み、そこに書かれていたいじめが僕の知っている「いじめ」とはだいぶ違っていて衝撃を受けた。

http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000050/50909/20160902ijimehoukokusyo.pdf
(報告書のURL)

僕の知っている「いじめ」とは、集団で個人を無視したり、それこそ原発避難者いじめのようにばい菌扱いしたり、時には暴力を振るったりして、抵抗できない弱者を追い込むものだった。だけど、報告書に書かれているいじめは、そういった特定の原因が分からないような、複合的で、しかも僕的にはいじめた側の悪意が明確とは思えないようなものだった。

言ってしまえば、何を「いじめ」と感じるかは相当個人差があるのだと思う。それとその人がその時に置かれている環境も大きい。

原発避難者いじめのような、誰もがいじめだと思う「いじめ」は本当に卑劣だし、師岡さんの言うように、そのことでいじめた側は良心の呵責に苦しむだろう。だけど、いじめたとされる側が、そのことに無自覚な場合もあるのではないかと報告書を読んで思う。「そんなつもりじゃなかった」とか、最悪の場合は「良いことしているつもりだった」ということも考えられる。

僕は自分に理解できないことがあると、それは社会が変化したからと、無理やり理由を外部化してしまう癖がある。だからまずインターネットやSNSの普及によって、多様化したコミュニティーや価値観が、そのまま原因の多様化になっているのではと考えてしまう。安直だろうけど、「いじめ」を感じる個人差は、そう言うことも実際にはあるんじゃないかという考えは捨てられない。