旧優生保護法において、本人の同意のないまま強制不妊手術を行われた原告2名による損害賠償請求裁判は、法を違憲を認めながらも請求を棄却する判決が出された。僕は、他人の痛みは数か月もたつと忘れてしまうので、文章として残しておきたい。
弱者(という言葉は好きじゃないのだけど)に寄り添うことのできない社会に強い憤りを覚える。それは、結局のところ「優性思想」が、社会に根を下ろしてしまった結果なのではないかと感じる。今回の判決だけでなく、社会の日常のあらゆるところに。
経済的格差も、低収入なのは個人の能力がないからと自己責任という「優性思想」に転化する。そして、それを「問題」として解決を目指すことよりも、その社会を前提として、低収入でも「幸福」になれる方法を、あたかも「解決策」であるかのように肯定的に受け止める社会。
効率的で実際的な幸福論だし、ポジティブな発想であるから抗いがたい魅力もある。でも、それは何かおかしいんじゃないかと感じずにはいられない。何が、どう、それを的確に説明できないもどかしさに悔しくなる。でも、今回の原告たちに寄り添う判決が出されなかったように、どこかで「痛み」に鈍感な社会を作り、その先にあるものに不気味さを覚える。