2011年1月26日水曜日

65DAYSOFSTATIC@リキッドルーム



今年に入ってから1日に1回は聴いている65DOS。待望の来日公演にいって来ました。会場はリキッドルーム。この会場は秘密集会っぽい雰囲気があって好き。再来月にはたむらぱんもここで観る予定。

ライブはとてもカッコよかった。CDで聴くよりも圧倒的に筋肉質な演奏で、音がとても力強かった。間違いなくライブで本領を発揮するタイプのバンドだと分かった。やっぱりライブはいい。どうしようもなく疼く。

セットリストもベストな内容。ブレイクビーツでフロアを盛り上げたり、ウォールオブサウンドな重厚なインストが聴けたりと大満足。アンコールを含めて約1時間半。あっという間に終わってしまった。帰りに、次はモグワイを観にいきたいと思った。

2011年1月24日月曜日

心事に筆がとどきにくい



司馬さんの『世に棲む日日』を読書中。うちには同氏の『竜馬が行く』『翔ぶが如く』などの名作が単行本であって、これもう宝物で、大切に大切に読んでいます。

「このあたりの松蔭の心事になると、小説の筆では本来、とどきにくい」(『世に棲む日日』第1巻本文より)

改めて司馬さんの本を読むと、その面白さは勿論のこと、格調の高い文章にひんやりとさせられる。「小説の筆では心事にとどきにくい」とは一流の翻訳家ならどう訳すのだろうと考えてしまった。司馬さんが原稿用紙に向かっている姿が思い浮かぶ文章だ。

短期間に集中して本を読むことによって、また新しい本の楽しみ方が見えてきた気がする。人は誰でも一生のうちに"本を読むまとまった時間"をとったほうがいいと思う。必ず貴重な財産になる。

天国と地獄



今夜は久し振りの雨。ぱらぱらと本降りではないけれど、乾燥した日が続いたので慈雨となった。雪に変わるかなぁ。

今日は黒澤明監督の「天国と地獄」を観てきた。昨年から続いている「黒澤監督生誕100周年記念上映会」も大詰めで残す作品は「影武者」のみ。

この記念上映会で初めてまともに黒澤作品を観るようになった。黒澤作品は、映画監督などの映画関係の仕事を目指す人は必ず観なくていけないものだと思う。今の時代に、これほど面白く、そして考えさせられる作品を残せる監督は思いつかない。

まずはNHKでも民放でもいいから年に2回くらいは黒澤作品を放送したらいいと思う。国民的な監督なのにここまでTVから無視されているのはどうかと思う(もし年に2回もやってたらごめんなさい。その場合は4回に)。寅さんだって正月の風物詩になっているんだから。

次は小津安二郎監督の上映会を期待している。もっともっと日本の名作を観てみたい。

2011年1月23日日曜日

「エリックを探して」「その街のこども」「ソーシャルネットワーク」

先週観にいった映画。どれも良かった。



いま一番ホットな「ソーシャルネットワーク」。劇中の「ショーン・パーカー」(ナップスターの創業者でフェイスブックをブレイクスルーさせた人物)がカッコよかった。役柄のイメージが近そうなホリエモンではあのカッコよさに辿り着けないと思う。あとトレント・レズナーによるサントラも最高にカッコよかった。



阪神淡路大震災から15年。自分はその時高校生で、ボランティアにいこうと思いながら行かなかった負い目がある。ボランティアとか福祉という言葉に意識が向かい、それから自分の行動が劇的に変化するきっかけになった。主演の森山未来さん、佐藤江梨子さん、ともに自然な演技がいい味をだしていた。



ケン・ローチ監督の最新作。ブリットポップ期の英国コメディーを思い出す作品だった。イギリス人のフットボールに対する愛情と、パブ文化をとても懐かしく感じた(留学経験があるので)。それにしてもイギリスは中年のビールでお腹がぽっこりとでた役者さんの質が高い。というか人材が揃っている。そっちのほうがジェントルマンよりもイギリスらしさを表現している気がしてならない。

2011年1月21日金曜日

『身体知』



今日の一冊『身体知』。内田樹氏と三砂ちづる氏の「身体とコミュニケーション」に関する対談本。内田さんの対談本は、両者がとてもいい気分で話を進めている感じが伝わってきて、こちらも穏やかな気持ちで読み進めることができる。

身体能力を高める着物の効用について。

「着物を着ていると、洋服の場合よりも身体の使い方に意識的になりますね。自分がこれからどういうふうな空間をどういうふうに移動するか、それをしっかり予測しておかないと動けないから~~」(本文より)

着物は、その艶やかさから視覚的特徴に注目が(特に海外では)集まりがちな気がする。でもその効用に意識を向けるともっと驚かされる発見がある。それは伝統文化の歴史体験に感動するような体験なのかも知れないと思う。こういう知識は繋げていきたい。

話⇒転

「身体とコミュニケーション」ということで、モンゴル人から学ぶべきだと常々考えているコミュニケーションがある。(ブログで何度か紹介しているかも)

モンゴルでは混雑しているバスや街中で、誤って人の足を踏んでしまうことがよくある。そのときモンゴル人は踏んでしまった相手の手を握って"ごめんね"の意思表示をする。

最初は急に腕を掴まれたりするので慣れなかったけど、しばらくするとこちらからも同じことができるようになった。むしろしないと気持ち悪いくらい。

これは「謝意」のほか「私はあなたの敵ではありません」の意味があるらしい。内田氏の本で武術の本意とは「敵を作らないことにある」と読んだ気がする。そういう意味でもとても優れたコミュニケーション方法だと思う。

日本では昔、武士同士が道でお互いの鞘がぶつかると「無礼」といって斬ってしまうのが当たり前だったそう。(本文の内容)だから鞘の先端まで「自分の身体」として意識が及んでいたらしい。斬るという行為はいまの時代ではどうかと思うが、身体が鋭敏なコミュニケーションと結びついていてはっとさせられた。

2011年1月20日木曜日

『身体を通して時代を読む』



今日の一冊。内田樹氏と甲野善紀氏の対談本。タイトルの通り"身体"を通して幅広い領域の事柄についての両氏の意見交換がなされている。ちなみに内田氏の本はこれで5冊目くらい。徐々にタツラー化してきています。

この本も、少し前に紹介した羽生さんの本と同様に、あとがきまで最高に面白くとてもためになる内容だった。本にはずれは無いと思っているのだけど、最近読む本は当たりが多い。

たくさん頷いたところ。

「応用というのは、一見すると関係なさそうなものの間の関係性を発見するということなんです。一度そのやり方を覚えると、後はどんなものでも繋ぐことができる。」

学校教育でなされる知識の分化に対する批判。単体としての知識を学習することよりも、知識と知識の有機的な関連の発見を重視する体験的な学習を勧めている。

私は、読書も体験するものじゃないかと考えている。そして体験の積み重ねがアーカイブされ、身体のなかで発酵するところに読書による人間形成があると思っている。この発酵する体験を知ってしまうと読書はやめられなくなる。

内田さんは変人だと思う。著作権を放棄しているところもそうだし、文章の言い回しがなんか仙人っぽい。そして、これだけの変人が多くの人から指示を集めているのは面白い時代の証明のような気がする。単一な価値観が支配していたちょっと前の時代には考えられなかった現象だと思う。

2011年1月19日水曜日

TVゲーム三日坊主



年始から品薄状態が続くPSP。たまたま定価以下の価格で購入できる機会があったので購入してみた。TVゲームをするのなんて15年振りくらいだ。

ところがこれが面白くない。ゲームをしていても本を読んでいるほうがずっと楽しいなぁと思って続かない。なので結局売ることにした。この間わずか三日間。

そしたらパートナーから珍しい三日坊主だね、と言われた。それは何となく分かる。普通はゲームをやめるという決意が三日坊主になると思う。高校生くらいのときは自分もそうだった。

本や映画や音楽のほうがよっぽど面白いことが骨の髄まで沁み込んでいると実感できた。これはとても嬉しい実感だった。